菅家様
菅原道真は菅公または菅家とも呼ばれていました。
百人一首には菅家として、歌が取り上げられています。
紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに
急な旅のために、神様に捧げる幣も用意できませんでした。
代わりにこの素晴らしい紅葉の景色をお捧げ致しますと詠んだものです。
菅公がいかに信心深く、そして優れた歌人であり感性の持ち主であったのかがわかります。
宇多天皇から引き立てられ、右大臣にまで上り詰めたのも当然のことでしょう。
ですが藤原氏全盛の時代ですから、出る杭は打たれる、左大臣藤原時平との対立は熾烈なものになっていったようです。
前の記事では簡単に記してしまいましたが、もう一度菅家様の祟りと言われるものについておさらいです。
延喜3年 道真死去。帝釈天の許しを得て、復讐を誓う。
延喜6年 時平派の中納言定国が40歳で死去。
延喜8年 時平派の藤原菅根が雷に打たれて死去。
疫病が流行る。
延喜9年 藤原時平死去。
延喜13年 源光泥沼に突っ込み死去。遺体は上がらず。
延長元年 皇太子保明親王死去。
延長3年 慶頼王死去
延長8年 清涼殿落雷事件。大納言藤原清貫が雷に直撃され死去。他、死傷者多数。
同年 ショックで醍醐天皇崩御。
承平6年 時平の長男保忠死去。道真の怨霊に恐れおののいていたという。
三善清行
三善 清行(みよし の きよゆき/きよつら)もまた菅原道真と対立していました。
まあライバル関係であったというのが正しい気がします。
道真のほうが先輩にあたります。
清行は陰陽道に明るく、息子の浄蔵は法力を持った僧侶でした。
道真が右大臣になった時には、道真に辞退するようにと手紙を送っています。
これがライバルを蹴落としたい気持ちで送ったものか、悪い予感がして送ったものか、道真への友情の心から身の程以上の出世で軋轢があることを心配しておくったものかはわかりません。
ほどなく道真は太宰府に左遷されてしまいます。
その時に道真の親族や宇多天皇の側近、道真派の人々全てが処分されることになっていましたが、清行はそれに反対して、道真の親族と宇多天皇の側近のみにとどめるようにと、藤原の時平に進言したと言われています。
清行は息子である浄蔵の法力に守られていたようで、その後の道真の祟りと言われるものからは免れました。
関係者がほぼ全員死んでしまっても生き残り、参議にまで昇りつめました。
ところが浄蔵が熊野詣にでかけたすきに、急死してしまいます。
浄蔵が戻ってきて、父親の死を知ると、あわてて蘇生術を行い、7日だけ生きることができたといいます。
このときに一条戻り橋を渡っていなかったので、清行はこの世に帰ってこれたと言われています。
藤原時平が病にかかったときに、加持祈祷をしたのがこの浄蔵です。
そのときに清行は時平の耳から出てきた、龍に姿を変えた道真の霊を見ています。
おそろしー。
三善清行のように信心深い人は守られているので、こういった災厄には合わないで済むのですね。
日ごろから神仏に手を合わせることは、やはり大切なことだと気が付されます。
いざという時にお守りいただけるのですよ。
平安時代のこの朝廷で起きたことは、今もあちこちの組織で起こっています。
人を嵌めて自分が権限を握ろうとする人は必ずいるのです。
そういう人間はいい人の振りをします。
そして裏で蹴落とすのです。
やられたほうは後になってから実はこうだったのだと知ります。
無実の罪をでっち上げて、自分たちの悪事や不正、失態などを全てやめた人や貶めた人たちになすりつけ、他の人のやった仕事はことごとく潰して自分だけが優秀だとしてのし上がる。
このようなことは全て神様はみているでしょうし、やがて自分の身に恐ろしい災厄として降りかかってくると思わないのでしょうかね。
自分だけが正義だとでも思っているのでしょうか。
恐ろしいことです。
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